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春へ繋ぐ vol.1

 

 

 

陽の光が温かい。川辺には菜の花が咲いていた。もう3月だ。年度が終わる。

 

この時期になると、テレビのCMも卒業・新生活・引越しと、大きな節目関係のものがよく流れるようになる。卒業と言えば慣れ親しんだ学校、そして友達との別れ。涙がつきもののイベントのはずだけど、私は高校までの卒業式、結局どれも泣けなかった。どうしてもそういう『人との関わり」という外的な要因で泣くことはあまりできないみたいだ。

高校卒業の時も泣こう!と謎の意気込みをしていたけれど、案の定泣けなかった。もともと人間関係への意識が低いのもあるからかもしれないけど、卒業式の一週間後に受験が控えていて、卒業するけど進路が見えなかったから…というのも大きかったのかもしれない。

 

 

 

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行きたい音楽大学を選ぶ基準は、『師事したい先生がいる』『その学校の環境が好き』とか、そういうので選ぶのが普通だと思うけど、私の場合は順番が違った。

 

進路を決める時親に「音大に行きたい」と言ったら、まあそりゃそうだ、大反対された。でも私は楽器以外にやりたいことがなかった。その他に人生を楽しめると思うことがなかったのだ。どれだけ言っても私が永遠に折れなかったから、ついに家族が折れた。

ただその代わり、学費の高い私立はNG。国公立か、もし私立にするなら特待生での入学が条件、と言われた。それしかないのなら、それで受けるしかない。だから自ずと的は絞られた。距離的に近いからか、私の学校から愛知県立芸大を受ける人が多く、そんなような理由で私もそこにした。そこのサックスの先生が誰だか知らなかった。

 

レッスンの先生に「愛知県芸を受けるなら、雲井先生の演奏をまず聴きな。」と、CDを渡された。帰り道車で聴いた、その時の衝撃は忘れられない。

 

これが本当にサックスなのか?同じ楽器を吹いているの?

 

選択肢がなくて決めた学校は、本当の意味で第一志望になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音大を受けると決めた時期は、高校2年の冬の終わりだった。それまでのんびり過ごしてきたから、レッスンでエチュードも全然進んでなく、スケール全調すら吹けないくらいのレベルだった。

「今から音大受験、しかも国公立なんてはっきり言って遅いから。浪人覚悟するんやぞ。あと、来週までにスケール全調覚えてこい」と言われた。次のレッスンからマジでむちゃくちゃ厳しくなった。

 

3年生に入って、月一で東京へレッスンに通いはじめた。

雲井先生につく前に、雲井門下の先生に習ったほうが良いと促され、雲井雅人サックス四重奏団の西尾先生を紹介された。コミュニケーションがうまく取れずガチガチだった私に、先生はいつも笑顔だった。私は黙りんぼだったし感情もなかなか表に出ない、心底扱いづらくて変な生徒だったと思う。

レッスンは当日蜻蛉帰り。レッスン時間は2時間。アンブシュアから身体と息の使い方、正しいリードの選び方。本当に基礎から全部やっていった。東京に来て2時間、楽器を使わないで終わったこともあった。リード選択に失敗してリード選びだけで終わってしまったときは、情けなくて先生の前で泣いた。

 

高校の芸術コースには定期的に実技試験があり、毎度順位がついた。

2年生までは正直成績は中の上ギリギリで良いとは言えなかったが、3年生では受験に向けての努力のおかげか順位が少し上がった。やっとだった。でも、やっぱり副科ピアノのほうが成績が良かった。

その年の文化祭で、カラオケ大会で優勝してしまった。別に歌なんか習ってないのに。歌うことは好きだよ。ピアノも歌も順位は高いのに、肝心のサックスはなかなか伸びない。

人間てそんなもんだ。嬉しくて悔しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いろんな事が3年生で最後になっていくなか、滑り止めは受けるのかどうかを聞かれたけど、現役一発合格!という強い気持ちはあまりなくて、落ちて一年浪人するという経験もしてみたいという妙な気持ちもあり、その年は第一志望の愛知県芸だけを受けることにした。

 

3学期の終わりが近づくにつれて、周りはどんどん進路が決まっていった。最後の最後まで入試が残っていったのは、国公立受験組。もれなくその中の人間だ。

授業が終わったらすぐ練習室に向かって、ピアノとか歌とか練習したり、サックスを練習したりしていた。受験課題のフェルリングとケックランは、良い曲だとは思っていたけどその時は好きではなかった。長くて辛い曲、隠せなくて辛い曲。美しさがわからなかった。苦しい受験生で、舞台に立つ表現者じゃなかったんだなと、今なら思う。

 

 

 

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高校の卒業式は、確か3月2日だった。天気が良かったと思う。

卒業の歌は『旅立ちの日に』だった。卒業式の流れは全然思い出せないが、どういう風景だったかは覚えている。

歌の途中、周りが泣き出しているのがわかった。そうか、卒業するんだな。

卒業式の後はクラスに戻り、友達や吹奏楽部の後輩と写真を撮った。晴れやかな空気だったけど、自分の気持ちはそわそわしていた。

 

 

 

 

 

その一週間後くらい、愛知県の藤が丘、リニモで芸大坂。

県芸の試験は3次試験まであって、1次がフェルリング、2次がケックランだった。

2次まで残った。確か7、8人くらいいてその中の何人かは浪人生だった。

当日、ケックランのカットが発表された。周りの人が何か話している。

「このカットならこのフレーズはどうするんだろう?」「ピアノはこうだから…」

何を言ってるのかわからなかった。自分が勉強不足でわからないんだという事にすぐ気がついた。

 

『もう勝てないな。』演奏前に悟ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2次試験の結果、私の番号はなかった。

もう予想していた事だったから、そこまでショックではなかった。

浪人ってなにするんだろう。そっちへの興味のほうが大きかった。

 

1年間の浮浪の旅が始まる。